先日、七日の夜、ぼくは仙台のあるマンションの五階に一人でいた。飛行機と長距離バスを乗り継いでの移動の後で疲れていた。さっさと軽い夕食を済ませてすぐに寝た。
深夜、地震で目を覚ました。なかなか大きい。しかし寝ている自分の上に倒れてくる家具はないなと考え、そのまま寝て待った。周囲でものが落ちる音がして、やがて停電になった。日常の外へ連れ出されたような感じだった。窓の外を見ると、ゆっくりと動く車のヘッドライト以外はぜんぶ闇。ずいぶんたって遠くで犬が鳴く声が聞こえた。その声でふっと、まるで魔法が解けたように、日常の時間に戻った。
翌日の昼頃、ぼくは仙台市若林区荒浜にいた。見渡すかぎり、住宅の残骸と瓦礫が広がっている。とても静か。震災から四週間近くたって整理はひととおり済んだのか、ほとんど人はいない。聞こえるのは潮騒ばかりで、それに潮の香りが混じる。
多くの家は床や土台だけになっていた。まるで建築の途中のようだがこれは破壊の跡だ。「あらはままつり」と色鉛筆で書かれた子供のノートが砂にまみれている。
ここに人が帰ってくることはない。みな避難所で苦労の多い暮らしをしているか、あるいはもうどこにもいないか。
日本はよい国土を持っている。
大陸とは海で隔てられて異民族の侵略をほとんど受けることがなく(こっちから行ったことはあったが)、水と陽光に恵まれ、モンスーンのおかげで気候は変化に富んで、四季折々の風景は美しい。
しかし天災が多い。プレートの境界線上にあって大地は不安定だから火山と地震と津波に脅かされ、その上に台風もやってくる。それで我々は、すべては永遠ではないという無常の哲学を身につけた。敵襲ならば反撃もできるが、天災は甘受して、泣いて、再興するしかない。しかし、それにしても、そのたびに何回泣いたことか。
仙台の後、石巻、女川、大船渡、陸前高田を見て回った。女川では津波は狭い谷を遙か高いところまで駆け上がっていた。まさかこんなところまで水が 来るとは住民の誰も予想しなかっただろう。陸前高田ではおそろしく広い範囲を壊した上で川に沿って数キロの地点まで遡っていたのを見た。
破壊の様相の違いを見ていたのではない。できるかぎり広く見て、それを元にあまりに広範囲な全体を想像しようと思ったのだ。廃墟には人はいない。そこに立って、移転を強いられた人々のことを思う。
罹災した青年が外から「一緒にがんばろう!」と言われるのにうんざりしているという話があった。「東京の人も不幸になってくれ。そうしたら一緒にがんばる」と彼は言った。帰るところのない人が帰るところがある人にそう言っている。その東京も次の大きな余震に脅え、迫り来る放射能を恐れ、長期的な不安にもさいなまれている。人々は非日常の違和感を共有している。
大船渡で聖書を気仙地方の言葉に訳した医師、山浦治嗣(はるつぐ)さんにお目にかかった。以前から敬愛していた方である。被害は、家の床まで水と泥が来たが、それ以上ではなかったという。
昔から診てきた老人が無事な姿で来たから「おお、生きていたか!」と喜んだら、「でも、俺より立派な人がたくさん死んだ」と言って泣くのだそうだ。それ でもこの間、「なんで自分がこんな目に遭わなくてはならないのか」という怨嗟(えんさ)の声は一度も耳にしなかった。「あっぱれだ」と山浦さんは言われる。
地震と津波は多くを奪ったし、もろい原発がそれに輪をかけた。その結果、これまでの生活の方針、社会の原理、産業の目標がすべて変わった。多くの被災者と共に電気の足りない国で放射能に脅えながら暮らす。
つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。これまで我々はあまりに多くを作り、買い、飽きて捨ててきた。そうしないと経済は回らないと言われてきた。これからは別のモデルを探さなければならない。
被災地を見て、要所要所に賢者はいると思った。若い人たちもよく動いている。十年後、この国はよい貧乏を実現しているかもしれない。
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